20170501

今月23日に岩手県陸前高田市の普門寺に行き

2月19日に行った講演会の中で多くの皆様からご寄付を頂いた「ねがい桜」の奉納を普門寺・熊谷光洋住職の読経で無事、済ませて参りました。

 現在「ねがい桜」は8,000個を超えました。

東日本大震災で亡くなられた18,550名の御霊を祀る目的で行われている進行中の行事です。震災から6年目を迎え、今回で7回目(年に2度行った年がありました)の奉納式でした。今年は初めて陸前高田市・戸羽太市長もご出席頂き、引き締まった式となりました。皆様にご報告とこれからも引き続きのご支援をお願い申し上げます。
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 さて皆様に一人の女性をご紹介致します。村上市に在住の小田テル子さんです。 小田テル子さんのお母さん、テイさんは、村上市山辺里で続いた「山辺里織」の十二代伝承者でした。山辺里織とは小田家により代々織られてきた織物の総称です。


 寛政末年から山辺里村庄屋・小田伝右衛門光貞が「繭」の産地であることに眼をつけ、手機を購入し、息子たちに西陣、丹後、仙台で機織の技術を学ばせ、手機の絹織物の生産に着手したのが山辺里織の始まりだそうです。江戸時代には、「村上平」「村上縞」と呼ばれ、仙台平の製繊技法の模倣を行い、その後山辺里平独特の織り方を生み出し、現デパート三越や高島屋などに販路を広げ、一時は仙台平を超えんばかりの勢いがあったそうです。明治9年に「山辺里織」と改め、明治前期には販売が最高潮となり、洋服裏地として、イギリス、フランスにも輸出。フランスでは「サベリ」と呼ばれ高級裏地の代名詞となりました。しかし、寄る波に勝てず、昭和53年に廃業となりました。

 現在は「山辺里織」の始祖直系の小田テル子さんが伝承者として、江戸時代の手機織を再現しています。テル子さんは山辺里織の伝承を母テイさんに拒み続けて来ました。そして山辺里織は一時途絶えてしまいました。しかしながら長年拒んできたテル子さんが平成元年に山辺里織を再開させました。

 小田テル子さんは現在、山辺里織を伝承するため、お一人で頑張っておられます。4月19日に縁あって初めてお会いすることが出来ました。テル子さんは「小さい頃から母の機織の後姿を見て育ち、それを拒んでいた自分も実は機織が大好きだと気づき、今は機を織っているときが一番幸せ」とおっしゃっておりました。また、機織教室を開き後継者探しを行ったそうですが、趣味から脱して一生の仕事とする方は、いまだ現れないそうです。

 テル子さんに山辺里織の作品を見せて欲しいと申し出ると渋い顔をされて、反物は少しずつ織っていますが、きものになる反物は少ないんですとの事。どうしてですか?と伺うと きものとしては売れないから、袋物やその他に切り刻んで小物としてギャラリーなどで販売し、売れたらそのお金でまた糸を買い、細々と織れることへの感謝と楽しみにしているそうです。本当はきものとして売れて一人でも多くの人が山辺里織のきものを着て頂くのが私の夢であり織人(テル子さん)としての幸せです。とおっしゃっていました。

 今月8日~21日の期間山辺里織のご紹介を店内でさせて頂きます。8日・9日は小田テル子さんご自身に来店頂き、山辺里織の歴史や織の特徴などを説明して頂きます。お越しをお待ち申し上げます。

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