20170801

今年7月29日で、わのわ(有限会社 北越)は創業50年を迎えました。

私の父(故・小林正信)は私が中学1年の時まで市内の総合繊維問屋に勤務するサラリーマンでした。1968年(昭和43年)に理由あって株式会社 北越の社長に就任し、その後を私が継ぎ今日に至っております。

 父の社長就任の理由を申しますと話が長くなりますので省略させて頂きますが、ある日突然「社長になった」と言われても中学生の私にはピンときませんでした。我が身に掛かってきたのは高校入試でした。

 私が当時、工業高校の進学を望んでいたのを、父の希望で商業高校へ変えたのです。昨年、私の中学の担任だった恩師が突然店に来られました。熊本地震で被災に遭った呉服店を支援した新聞報道を見ていらしたのです。「小林君、頑張っているね」「まァ何とかやってます」そう答えると、先生は「私は、あなたが気がかりでした」とおっしゃいました。忙しく出張で飛び回っている父の代わりに母が進路相談に行き、父が商業高校への進学を望んでいると聞いた先生が、父の強い意向に沿い、母と願書の手続きをしたそうです。

そしてその後の私が気がかりで四十数年見守っていて下さったそうです。そんなことなど何も知らず、高校時代は停学スレスレ生活をし、社会勉強という名目でやっと入れた大学では本当に大学の勉強ではなく、社会勉強だけでした。先生は、「あなたがお父さんの後を継ぎ、そして人の役に立てる人になってくれた今、あの時お母さんと一緒に書いた願書が間違いなかったと思えるようになりました。本当に頑張っているね。これからも頑張ってね」と言い、帰っていかれました。

 1976年(昭和53年)株式会社 北越へ入社。叔父から「糸偏に就職した者は糸偏から、金偏に就職した者は金偏から抜け出せない。その覚悟で就職を決めろ」と言われました。何となく納得したのですが、叔父は国鉄という金編から糸偏の父と一緒の繊維問屋で働いて独立し、繊維問屋を営んでいたのです。苦労をしたのでしょう。今でも叔父のその言葉を時々思い出します。

 そしてこの業界、普段使わない物の名前が多いことに慣れるまでが大変でした。例えば着尺・羽尺・八掛・胴裏などなど日頃口にすることのない名称。そして専門的な長さの単位「尺」です。これも慣れるまで長い年月苦戦しました。それが今では慣れた尺が通じずセンチメートルです。慣れとは怖いもので、尺からセンチに今、苦戦しております。

 入社当初の北越は問屋業専門でした。このころの地方問屋は、その地区に根付いた範囲で卸業を営む事が普通でしたが、我が社の得意先は県内・市内はもちろん、山形県・秋田県・千葉県まで多岐に販路がありました。故に月に20日間以上は出張をしておりました。最初は出張が嫌で嫌で、出ると後何泊で帰れるかと帰る事ばかり考えておりました。人との会話も苦労しました。人と話をすること自体嫌だったのですが、それ以上に訛りが解らず会話が成り立たないことに嫌気がさしました。聞き取れず何回も聞き返すと嫌な顔をされ、聞き返さずにいると注文を間違えたりしました。するとますます会話が出来なくなります。

しかし、時が過ぎればいつの間にか出張も楽しみとなり、人との会話も今ではしゃべりすぎだと注意されることも多々あります。あの頃の自分からはとても想像がつきません。そして後悔が一つ。あの頃は電卓が無く、得意先に値段を表示する手段は五つ玉のそろばんです。商業高校で停学スレスレの私がそろばんなど出来ません。あ~もっと勉強(そろばん)やっておけばよかったと日々悔やんでいたころを思い出します。

 きもの業界は私が入社したころは、小売で一兆八千億円くらいの市場でした。今は三千五百億円くらいだそうです。この急降下の中、創業50年を迎えました。入社してから四十年いろんな事がありました。

 だらだら文で書ききれません。続きは来月のわのわ通信で。

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